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やまぼうし [植物]

2005年春
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 ミズキ科。花水木とは花びらの先がとがっているか、丸いかで見分けるという。
 花みずきより一ヶ月ほど遅れて、走り梅雨の頃咲く。真中の緑の丸を比叡山延暦寺の山法師の坊主頭に、白い花びらをその頭巾に見立てた昔の人はなかなかのセンス。歳時記では山帽子とも。花言葉は「友情」とか。


 下野の花山帽子雨けぶる 

 ゴルフ場でもやまぼうしを時折見かけた。ホールからホールへ移る間わざとゲームのことを忘れたふりをしつつ、木や草や花の話を交わす。他の人はいざ知らず、じぶんには、ほんとうのところそんな余裕は無いのだが。

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亡き友 平井 隆君追悼句 [追悼句]

 ビジネスマンであり歌人であった畏友を亡くした。我が同期生では白面の貴公子然としていた。 
 仕事をするだけで精一杯であったので残念ながら彼の短歌を知らない。評判では素晴らしい歌を詠んだという。生前もっと話し、出来れば歌も教わっておけばと悔やまれる。

 ひとりだけ蘭の花好き今もなお

ほかに
 柊や乱調の詩いま流れ     
 これより掲句のほうが好きだ。

折り句は五七五の頭にひらいを詠みこむが制限されると詠みやすいという変なことになる。そもそも俳句そのものが制限されているのに誰にでもとっつきやすいとのと似ている。
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タグ: 貴公子
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韓国旅行 [旅]

2004年秋 
 昔からお隣の国へ行きたいと思っていた。温泉巡りというツアーに参加した。仁川、温陽、扶余、慶州、釜山、みな温泉があるという。温泉は別として期待どおりの国であった。すべてなんとなく懐かしい。とてもいま戦時下にある国と思えないのは、ノーテンキな観光客だからか。

秋澄みて魚鐸鮮やか海印寺
ほかに  
 鐘太鼓魚鐸雲板秋古刹
 韓式の風呂で目が合うロシア人
 慶州の秋山奈良の空に似て
 朝寒や巻寿司を売る恩陽街
 円墳のみささぎ弾け栗鼠走る
 花郎酌む慶州の夜そぞろ寒
 白村や両岸ともにすすき見ず
 秋寒や百済の青年髪長し

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御徒町女義太夫夏袴 [俳句]

2004年 夏 
 先輩、晴坊こと岡田晴彦さん、晴坊氏と同期の中原純一さんと神保町のいづも蕎麦で飲み、美味しくそばを食べたあと、帰りに御徒町の寄席へ行こうということになった。
 はじめて義太夫を聴いた。晴坊さんはその後亡くなられたので懐かしい思い出になっている。
 そのときの晴坊の句。
 夏野菜炒めて今朝はイタリアン?
 こちらが私の句。
 おかちまちをんなぎだゆうなつばかま 
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 ほかに
 IT(アイテイ)のプロの作りし夏野菜
 義太夫を初めて聞きし夏の宵
ITのプロとは、中原さんのこと。

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石榴 [植物]

2004年夏  
先に咲いた石榴は既に実が大きくなっている。それでも同じ枝で花は次々と咲き続ける。当たり前というか、ごく普通のことが何やら不思議な気がした。
植物のなかには花が一斉に散ったあとこれも一斉に実をつけるものもある。さくらんぼのように。どちらが多いか知らないが、花も実もある方が良いに違いない。 ナスやトマト、きゅうりなど野菜はこれが多いのはありがたいことだ。実はもとなりとうらなりになる。うらなりはたいてい味がよくない。

実をつけてなを花やめぬ石榴かな     

 石榴といえば、鬼子母神。恐れ入谷のそれが有名。鬼神のひとり詞梨帝母(かりていも)が人の子を食べ暮らしていると、釈迦に可愛がっていた末の子嬪伽羅を隠されてしまう。
彼女は子を持つ親の心を知り、「嬪伽羅が無事に戻るのであれば、必ず世の子供たちの守護神になろう」と誓い、その後は人間の子供を食べる事をやめ修行に励んだので、保育の神様として崇められるようになったという。
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半夏生 [植物]

2004年夏
 むかし世話になった方に、今も年に二度ほどご挨拶に顔を出す。広島で二十歳のころ被爆をされたことは昔聞いたことがあったが、いま傘寿をすぎておられる。お元気なのが何よりである。

被爆せしおうな傘寿や半夏生

 人類にとって何が大切かと言えば、この世から戦争を無くすること、核兵器を廃絶すること、このこと以上のものはそうは無い。
 半夏生・カタシロクサ・ドクダミ科。葉の半分が白く(半化粧したように)なる。別の植物の半夏・ハンゲ(サトイモ科の烏柄杓・カラスビシャク)が生えるころに咲くことからこの名があるという。
 半夏生は七十ニ候の一つでもあり、夏至から数え十一日目とか。
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日枝神社の石神猿 [神祇釈教]

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2004年夏 願い事を祈りて

 願い事が叶って山王の日枝神社へお礼参りに行った。御祭神は山と水を祀る大咋神(おおくいのかみ)で近江の国の日枝山の出という。
 境内へエスカレーターで昇ると、四方は高いビル群に囲まれている。隋身門の左大神は衣冠束帯の猿の木像である。写真は本殿前の親子猿の石像。e (イー)句目指して神を畏れぬ多作多捨。俳句ならぬ拝句である。
山王様汗と賽銭放り投げ
二拍二拝汗は数滴日枝神社
日枝神社猿の石神汗かかず

 新聞の運勢欄に十一の神社に祈願すれば願い事が成就するとあったので、鷺宮八幡、阿佐ヶ谷神明宮、井草八幡、田無神社、東伏見稲荷、秋葉神社、明治神宮、日枝神社、根津神社、湯島天神、築土八幡にお参りした。東京にもたくさんの神社があることをあらためて思い知らされた。お礼参りにも十一の神社すべてに行った。
 ほかに
くぐり茅たたみて抜ける日傘かな
緑陰や明治神宮台北語
武蔵野の伏見稲荷や狐雨
夏の朝井草八幡客二人
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台湾旅行 [旅]

2003冬
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 故宮博物院の清時代の至宝翠玉白菜。白と翠色の白菜の上に二匹のきりぎりすがいる。左上は豚肉の形をした玉が併せて展示されている。博物館に展示されているのは、その蔵している文物のごく一部だそうで、入れ替えてすべて展示するのに十三年はかかるとのこと。なかでも有名なのがこの翡翠白菜とほかに象牙の珠をくりぬいたもの。一体この翡翠は値段をつけたら幾らになるのか。
故宮にて翡翠白菜息を呑み
 ほかに
ウーロン茶売りし男の薄き髪 夜市の鉄板焼きの辛さかな 台湾の木痲黄の黒き青
台北のフカヒレ土鍋舌を焼き
 はじめて台湾、といっても台北だけだが、訪れた。頂上飯店の鱶鰭を食べたいというのが目的とは
我ながらさもしい。
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鬱金桜(うこんざくら) [植物]

2003
 染井吉野が終わると、八重桜など色々な種類の桜が咲き始める。近所に一本の鬱金桜がある。
 薄い緑がかった黄色の花が美しい。散歩の途中でつい見とれ、煩わしさをひととき忘れる。大阪造幣局の通り抜けにも咲いていたのを思い出した。

 意馬心猿欝金ざくらに風と消え

「意馬心猿」とは国語辞典に「妄念や煩悩( ぼんのう) が激しく、心の乱れが抑えられないのを、奔馬や野猿が騒ぐのを抑えがたいさまにたとえた語」。仏教用語とある。
 詠むときに辞書を引いたわけではないが、まあ、こんなところだろうといい加減なものである。しか
し意味は間違ってはいなかったようだ。ただ、こんな難しいことばでなく「憂きことも・・・」くらいが分かり易くて良い。毎年この桜を見に行く。写真は2004年4月撮影
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糸瓜・瓢箪・ごうや [植物]

2003
 今年は、酷暑との予想に恐れをなして窓辺に瓢箪、糸瓜・苦瓜の苗を植えた。
 苗はそれぞれ二階まで伸び、花が咲いて実もつけたが、瓢箪だけは三センチほどで落ちてしまった。
 糸瓜の実は三十センチ、ゴーヤは十センチくらいになり、収穫出来た。小さくてもゴーヤ(アバシ)は
美味しかった。糸瓜はタワシになる予定である。
 そこでe 句ならぬ冷や汗駄句、駄句を一句。

糸瓜咲き 糸瓜実のなり 窓涼し  

 まさに駄句そのもの。へちま、へちまと繰り返したうえ、花が咲いて実がなり窓が涼しいとは子供の句よりひどい。が、作っている本人は大まじめである。とぼけた味が滑稽味に・・・なっていない。
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2002 処女句 [俳句]

 俳句は身のまわりにたくさんあったのに、なぜか自分で作ろうなどと思ったことがなかった。
あわただしい生活が終わろうとしていたことを予感したように、ふっと頭に浮かんだのが俳句だったような気がする。いずれにしても、残っている記録では平成十四年の歳末のこの二句がはじめての俳句である。

      蠟梅の多弁愛で合ふ大晦日

      すさまじき年も過ぎ行き風呂に入る


 最初の句は、蠟梅と大晦日とが冬の季重なり、しかも多弁は造語。蠟梅は普通香りを愛でるが、五弁の梅と違い花弁の多いのが良いねと話しているというだけのもの。
 二句目は、すさまじい(秋の季語)は、冷じいで、「荒ぶる」が語源という。季語としては秋冷がつのるという意。すさまじいとしか言いようのない今年も過ぎて行くんだなあという感慨にふけりながら風呂に入ると詠むときに使ってよいものか。なお、風呂は季語ではないので、困ってしまう。「年も過ぎ行き」で年の暮れになるのだろうか。
 いずれにしても、はじめての句は今思うとなやましいことでいっぱいだが、こういった悩みは、いつになっても消えないものである。
 それにしても平成十四年、2002年は、年頭一月から十二月まで確かに凄まじいとしか言いようのない年であった。その年の暮れに俳句を詠むことが出来たのは何よりと思わねばならぬ。
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はじめに 俳句帖ハイクチョウ、発句集ホックシュウ、「はっくしょん」 [雑感・随想]

2002.2
 願はくば朧月夜の落ち椿 

 病間や解きかねる謎のメモの数

 などの句を残した坪内逍遥は還暦頃から作句をはじめたとのこと。
「句も歌も師なし季もなし格もなし字あまり避けず調べにも拘わらず」と、全くの自己流と言うが、さすがに余技の域を脱しているのではないかと思う。それにしても逍遥ともあろう方がなんという謙遜・謙譲。それだけ俳句というものに奥深さがあるということなのだろう。

 月も世をのがれて入るや山の雲  永機 
 風待っていたように散る木の葉かな   幹雄

 子規がやり玉にあげた月並み俳句の代表的なもの。理屈がからみ俗臭ふんぷんたるものという。そう言われると、自分の句はややこれに似ていなくもない。しかし初心者はおおかたこんなものだろう。
 腸詰俳句、工事俳句といわれようが、楽しんでいるのだから余計なことは言ってくれるなとも思う。そのうち、まぐれで一句くらいは良いものが出来るかも知れない。
 世に「俳人殺すにゃ刃物はいらぬ、それがどうしたと言えばよい」という。たしかにあとで自分が作った句をみて、え、それで何を歌いたいのと自問してみるとたいてい情けなくなる。
さて、もともとことばあそびや音韻連想のだじゃれなどが好きである。いにしえより詩歌は何によらずことばあそびが入っていたのだ。
 そこで「句集」とするにはおこがましいので「俳句帖」として
俳句帖ハイクチョウ、発句集ホックシュウ、「はっくしょん」とした。うん、くしゃみだ。風邪か。それとも誰かが噂をしてるのかな。嚔 くさめは冬の季語。くしゃみ、くつさめとも。

  数えられゐたるくつさめ三つまで  伊藤白潮

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