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「ほんのいっときの愉しみ」 [雑感・随想]

 連句と俳句では、作るときの脳の働きで見ると使っている部分が違うという説がある。
 俳句は好きだが連句は・・・という人の論か。しかし短歌と俳句ではどうかと考えてみるとこの議論はあまり意味は無いような気もする。
 俳句のなかにも「付き」がある。自分が一人で付ける。連句は他人の句に付ける、その相違の方が重要なように思う。言い換えれば、俳句は句会でのゆるやかな座の文芸、連句は同じ座の文芸でも直接他人の句にぶつけるという相違だ。
 俳句にもルールがあるように、連句にもルールがある。式目と言われる。俳句もそうであるように連句もきまり・式目に余り捉われると面白くない。連句は俳句と違って、そこに他人との折り合いが必要になるが。
 連句はやっている時が最高に楽しく、終われば反故の山だと言ったのは芭蕉であるが、一方で一直(歌仙を巻いたあとの手直し)だけでなく出来あがったあともかなり芭蕉は推敲したらしい。確かに、あとで読み返すと巻いた本人には、そのときの状況が蘇えってきて懐かしい気分になるが、第三者が読めばなんだこりゃという感じがある。
 さて、詩人高橋順子に「連句のたのしみ」という本がある。「とくとく歌仙」、「浅酌歌仙」、などとともに、数は少ないがいくつかある連句の本のなかで面白かったもののひとつである。この題名の顰にならい、この連句帖の題名をほんのいっときだった愉しみに終わらせてしまい、残念な思いをこめて「ほんのいっときの愉しみ」と名付けた。(2010年4月記)



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